第25回アジア賞作文コンテスト受賞者一覧

 

応募

賞名

大学

名前

テーマ

出身国

21

最優秀賞

信州大学 

グローバル化推進センター

Kmiec Magdalena Maria クミエッチ マグダレナ マリア

留学によって切り開く私の人生

ポーランド

10

優秀賞

丸の内ビジネス専門学校 

国際関係学科日本語コース2年

池上 エリカ

人生の豊かさ

フィリピン

19

優秀賞

信州大学 

農学部動物資源生命科学1年

ヌル アキラ バトリシア ビンティ アブドゥル マナフ

留学によって切り開く私の人生

マレーシア

2

伊藤賞特別賞

信州大学 

グローバル化推進センター

WU SHAOLONG 

ゴショウリュウ

松本に出会い自分に出会う

中国

20

審査員特別賞

信州大学 

繊維学部応用生物科学科4年

GYE,HEEJIN 

ゲ ヒジン

君たちはどう生きるか

韓国

16

泉北クラブ賞

信州大学 

工学部物質化学科

Ammar Iswadi 

アンマル イスワディ

留学によって切り開く私の人生

マレーシア

11

桃園クラブ賞

丸の内ビジネス専門学校 

国際関係学科日本語コース2年

LEELA KERKRIT 

リーラ グルークリット

留学生によって切り開く私の人生

タイ

4

山梨YMCA特別賞

信州大学 

医学部医学系研究科1年

Zang Weichen 

ザン ウェイチェン

大切な選択、人生の再出発

中国

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇最優秀賞◇

留学によって切り開く私の人生

クミエッチ・マグダレナ・ マリア

信州大学グローバル化推進センター

ポーランド

 

 人生には、様々な選択をしなければなりません。簡単な「朝ご飯は何を食べるか」から「この人と結婚するのか」のようなもっと深く考えるべき問題まで、結果は当たり前とどうやって将来を影響するか分からないこともあります。怖がって、最後まで正しいかどうか分からなくても、判断をしなければならない時もあります。私にとって、このような難しい判断は留学するかしないかということでした。これから、 この選択に伴う感情や今まで留学で体験したことを述べたいと思います。

 私は日本に最初に興味をもった時は子供の頃、初めて日本のアニメを見たことでした。画像や物語が今まで見たアニメと違って、キャラクターの名前も奇妙でした。その作品を生み出した文化を分かるために、両親に支援してもらって言語学校で日本語を勉強し始めました。

 数年が経って、家族の皆がお金を貯めてくれたお陰で、高校生の時に、日本に行くことができました。蒸し暑い8月の3週間を東京で過ごして、日本人の家にホームステイをして、毎朝日本語コースに通っていました。17歳の私にとって、それはまるで異世界の旅でした。以前、住んでいたワルシャワはポーランド最大の街ですが、東京はワルシャワの約10倍の大きいさです。それゆえ一日中、他の文化と言語に囲まれて、家族や友達と離れて、母語を全然話さないのは初めての経験でした。あの旅を振り返ってみると、モバイルネットワークさえ使用しなかった私はどうやって生き延びたのか、実に分かりません。ついにその日本滞在は終わり、飛行機が離陸した瞬間、私は成田空港を眺めて「いつか戻れるかな。。。」と考えていました。

 将来は日本と関係のある職業を求めるために、2018年にワルシャワ大学日本学科に入学しました。非常に厳しい科と聞いたが、厳しかったのは勉強より2020年3月に始まった新型コロナウイルスのパンデミックでした。新型コロナウイルスの影響で、突然家に引きこもるようになり、授業はいつ再開するのか、明日何が起きるのか分からない状態でした。

 その時期を回想すれば、日常生活に関係する不安を思い出します。もちろん、皆がそれぞれの事情があり、「そんなに悪くなかったよ」と言う人もいます。しかしコロナ禍の経済的や心理的な影響は、社会にも個人にも無視できません。2020年6月に祖父が急に亡くなって、通院は禁止されていたので別れを告げることさえできませんでした。試験期間中だったため、大切な人の死によって、私は勉強をする気力がありませんでした。次に家庭環境が悪くなり、学士の3年は全部オンラインで行われて、留学はおろか学士論文を書けるかどうか疑いました。幸いにも、たくさんの相談やサポートを受けて、ポップカルチャーの専門で学士論文をようやく完成させました。その時も、将来は日本語と関わる仕事を目指して、知識と言語能力を深めるために修士課程に進学しました。しかし熱意が下がって、失敗や苦しい感情から自分を塞ぎ込むかのようにもっと消極的な態度を取っていました。今年までそうでした。

 5年間の勉学後、今年は修士論文を書いて卒業するはずでした。しかし2月に指導教授から「留学について考えましたか?成績がいいから、合格できると思います」と言うメールが来ました。それを読んで、胸が一杯になりました。今まで留学の申し込みをしなかった理由は幾つかありました。まずは前述の通り、自尊心の低さでした。その上、ワルシャワに生まれ育った私は、ワルシャワ大学に入学したから別に実家を出る必要がありませんでした。

 多くの知り合いと違って、引っ越しとか家族から離れた経験とかがありませんでした。本当に異国で一人暮らしできるか、そのための覚悟があるかどうか、当時は分かりませんでした。もし大学は厳しすぎて、在留の手続は複雑すぎて、話し相手は見つからなかったらどうする?このような悩みが頭の中にいっぱいありました。しかも、その恐怖は日本に待っていた未知だけでなく、ポーランドに残されるものに対しても感じました。今年25歳になる私は早く卒業して、就職したほうがいいのでは?家族を支援すべきでは?私がいないと祖母の世話は誰がするのか?懸念が山ほどあったけれど、要するに留学することが怖かったです。多くの学生も同じように感じると思いますが、当時の私には乗り越えられない問題に感じました。

 教授のメールに答える前、家族と友達に自分が懸念していることを伝えて相談をし、皆が驚くほどポジティブに反応しました。「今まで家を出なかったからこそ留学するべきだ!」「将来のために最善の機会だわ」「日本に生活を送れるなんて、すごい」「すぐ卒業から最後のチャンスだ。やって見て」などの色々な応援の言葉を聞かせてもらいました。当時、信州大学で留学していた後輩と連絡を取って、日常生活や大学生活についてたくさん教えてくれて、「早く来てほしい」とまで言われました。そして、あの時私はとても重要なことに気付きました。私は独りではないということに。何か問題があったら、他人に助けを求めてもいいのです。悩みがあったら、聞いてくれて安心させてくれる人がいます。自分で何かをできない場合、任せられる人がいます。恐怖や不安があっても、独りで向き合えなくても、手伝ってくれる人がいます。それを生まれて初めてこんなに強く実感したのは、留学を考えはじめてからでした。その心構えを持って、信州大学に応募しました。

 私が日本に来てから1ヵ月が経って、別に全ての恐怖を克服したわけではありません。しかし留学の目的は「全ての問題の解決」でも「完璧な学校成績」でもなく、「成長」というものです。私にとって成長は自分の不安を足手まといにならないようにして、困ったら助けを求める−その二つです。確かに在留の手続きは難しいけれど、信大のチューター制度のおかげでいつでも助けてくれる学生がいます。授業には分からないことがよくあるが、同級生あるいは教授に聞けば大丈夫です。家族や友達は恋しいけれど、SNSで毎日連絡をするので少しだけ一緒にいる気がします。その上、日本に来てから新しい人と出会って日本人とも留学生とも友達になりました。その人間関係や取り戻した自信をもとにやがて前に進めると思います。

 留学の経験はどうやって将来の進路に影響するのか分からないが、理解したことは一つ。切り開いたのは私の人生だけでなく、自分の心でした。これだけで、留学することを決めてよかったです。

 ご清覧いただきありがとうございました。

 

 

 

◇優秀賞◇

人生の豊かさ

池上 エリカ

丸の内ビジネス専門学校国際関係学科日本語コース2

フィリピン

             

 私は「日常に人生の豊かさがある」と思っています。ただ、毎日忙しくていろいろなことをやっているうちに、たまに人生の豊かさを忘れてしまいます。ある日、何か起きたときにようやく気づきます

 

 「人生の豊かさとは何か」を自分で考えてみると思いつくのは、家族や大切な人の健康、一緒に時間を過ごせること、朝起きられること、周りを見られること、音が聞こえること、花のにおいが嗅げること、自分の話したいことを声で出せること、美味しい食べ物を食べられること、夜いいベッドで寝られること、歩けること、五体満足でいられることです。今、私が話した事は日常生活の中に埋もれて忘れてしまいます。でもよく考えると、これらのことは命にとってとても大事なことです。人それぞれ、もちろんいろいろな人生の豊かさがあります。大人たちはみんなお金のために一生懸命頑張っています。お金ももちろん人生の豊かさの中で大事ですが、私はお金よりも心の満足度のほうが本当に大切な豊かさだと思います。空を飛ぶ鳥、海の音、好きな食べ物の味、自然資源から得られる電気なども人生の豊かさに含まれます。

 私は父が日本人で母がフィリピン人です。成長するにつれ、二つの異なる国の違いを理解するようになりました。フィリピンでは、どんなに忙しくても誰かが困ったらすぐ時間を作って助け合います。どんなにたくさん問題が起きても、フィリピン人たちは頑張って前向きになります。フィリピンには周りに貧困な人もたくさんいます。でも、お金がなくてもみんなは幸せに見えます。それが人生の本当の豊かさです。その豊かさは他の何にも比べられないです。

 私は4年前に日本に来ました。日本で生活してみると、フィリピンでの生活と違うことがたくさんあります。日本で暮らしているとずっと忙しくて時間がいつも足りないです。家族との時間が本当に少なくなりました。やりたいことがあるのにできません。友達に会う時間がありません。アルバイトをしてお金があって、自分の好きなものが買えるようになっても、心の中に何か足りないと感じます。自分の人生に満足できていません。私はフィリピンで生まれ育ったので、日本に来て大変なことがたくさんありました。フィリピンでは近所の人たちとも仲良く、困ったらすぐに対応してもらえました。私は心が穏やかで、幸せで、人生が豊かだと感じていました。

 今年は私にとって大変なことが起こりました。私の親友が殺されました。事故か病気なら理解できますが、殺されるのは本当に信じられません。私の父は7年前に病気で亡くなりました。その時も私は命の大切さを理解しましたが、今年はより理解することとなりました。受け入れるのは本当に大変でした。でも、私はいなくなった原因を何度も考えるよりも親友と一緒に過ごした時間を思い出したほうがいいと思って、親友のためにも前向きに自分の人生を最大限に大切にすることに決めました。親友が亡くなった事実は変わりませんが、私がその親友の分も命を大切に生きていきたいです。もっと深い人生の豊かさを知ることができました。あなたにとって大切な人には愛を見せて、宝物のように大事にしましょう。

 私たちは一度しか生きられません。過ちを犯し、そこから学ぶことがたくさんあります。私たちの人生に訪れるチャンスは二度と訪れないかもしれないのだから、今あるものをもっと大切にし、この人生でできる限りのことをしたり、見せたりすることに全力を尽くしましょう。そうすれば、私たちはもっと幸せになれますし、本当に豊かな人生に到達したいという心の欲求を満たすことができるでしょう。

 

 

 

◇優秀賞◇

留学によって切り開く私の人生

ヌル アキラ バトリシア ビンティ

         アブドゥル マナフ

信州大学農学部動物資源生命科学1年

マレーシア

 

 私は日本と結婚したいという気持ちを強く感じています。小さいころから、父の仕事のために、日本とマレーシアを往復しました。その時から日本のことが好きになりました。しかし、その時はまだ子供なので、日本の良い習慣を実際に実感することができませんでした。今回の留学を通じて、様々なことが体験できるので、非常にうれしいです。私は日本と結婚したい理由は非常に簡単です。日本にいると穏やかで幸せな気分になります。留学によって切り開いたと思います。これは、数々の挑戦と経験に直面したからです。私は今年の328日に日本に到着し、ここでの生活は私の考え方、ライフスタイルなどが大きく変わりました。日本に到着した日から、留学は学業と個人成長の両面で最良の決断だったことがすぐに分かりました。なぜなら、子供のころから日本で学ぶことがずっと夢だったからです。

 家族と日本に住んでいるときに食事、お金、食料品などがすべて両親に依存していました。しかし、ここに来てから完全に変わりました。具体的に言えば、日本で最初の3か月間は、大人としての責任を自分で引き受ける必要があったため、私にとっては挑戦的でした。これには保険証の手配、デビットカードや銀行カードの取得、在留カードの取得などのことが含まれていました。私は4回も自転車で診療所に行かなければならないほど病気になりました。これらは私にとって挑戦的な経験でしたが、それが人生の一部であると言えます。

 そして、私はムスリムであり、私たちの宗教で禁止されている豚肉、ゼラチン、乳化剤、ショートニングなど多くの食品を食べることはできません。日本で販売されている肉もイスラムの規定に従っていない方法で動物が屠殺されているため許可されていません。肉が食べたくなると、ハラール肉を販売している「業務スーパー」という特定の市場に行かなければなりません。だから、毎日自分で料理しなければなりません。実は私が料理を作るのが苦手ですが、毎日の料理作るのが練習になりました。今では料理の作る時にレシピを参照する必要も、母親に電話をかける必要もないと思います。自分の料理スキルを向上させ、早い学習者になったと信じています。

 さらに私はもっと社交的でアクティブな個人になりました。日本に来る前に私の日本語のスキルは現在のものほど良くありませんでした。マレーシアで日本語を使用する機会が非常に限られていたためです。マレーシアでは友達と話す際にも、日本の人々が日本でのようにコミュニケーションを取る方法に馴染んでいなかったため、いつも正式な言葉を使用しました。私の日本語スキルが向上しただけでなく、信州大学には多くの留学生または交換留学生がいるため、韓国語、フランス語、中国語など、さまざまな言語を学ぶ機会がありました。他の言語と文化を学ぶ素晴らしい機会です。留学して以来、着物や浴衣を着たり、茶道体験に参加したり、人力車に乗ったりするなど、日本の文化のさまざまな側面を経験しまた。松本ぼんぼん祭りや花火大会などにも参加しました。

 次に、マレーシアの友達と一緒に、「こいこい松本」というイベントでブースを設けました。マレーシアのことを日本人や他の国の人に紹介するブースです。これは私にとって素晴らしい経験でした。その時、多くの日本人がマレーシアについての知識が不足していることに気づきました。特に宗教についてです。彼らは私に近づき、ヒジャブや宗教について質問しました。彼らはマレーシアの側面に興味を持っていて、その過程で私自身も自国についてもっと学びました。この経験により、内向的でシャイな性格の私にとって、他の人とコミュニケーションを取る大きな一歩でした。

 他には、私が今年の九月に第13回の留学生日本語スピーチコンテストに参加したことです。実は私はコンテストに参加するタイプではありません。しかし、自分自身を変えて、快適なゾーンを出ることを望んでみたいです。その結果、私は2位を獲得し、非常に嬉しかったです。

 また私は日本に来てから、より規律正しい人間になりました。日本は規律の行き届いた国として知られています。例えば、ゴミの捨て方です。日本ではさまざまな種類のゴミ箱があり、ラベルに従ってゴミを分別して捨てる必要があります。これは私にとって非常に興味深かったです。なぜなら、マレーシアでは日本のようなリサイクルシステムがありません。少し面倒くさいことがあっても、実際には日本のためになります。例えば、ペットボトルを洗い、ラベルとキャップを取り外す必要があります。私はこの点についてより注意深く責任感を持つようになりました。

 そして、私はいつも授業には早く来て、病気以外ではサボらないようにしています。授業をサボるのは非常に難しいです、なぜなら、授業前にテーブル上にQRコードをスキャンする必要があるからです。また、ほとんどの授業の最後に感想やレポートを書かなければなりません。これは学生が授業に出席し、全力で注意を払ったかどうかを確認する方法だと思います。これは、日本の教育システムが非常に効果的であることの証拠です。

 以上のことから、留学によって切り開かれた私の人生です。私の将来の目標に向かって進む助けとなっていると思います。そして、日本での留学生活は私にとって、貴重な思い出と経験に満ちた冒険であり、私の夢である日本との結婚への一歩ともなっています。この旅はまだ続いていて、これからも新たな挑戦や素晴らしい出会いが待っています。

 

 

 

◇伊藤賞特別賞◇

松本に出会い自分に出会う

ゴ ショウリュウ

信州大学グローバル化推進センター

中国

 

 女鳥羽川のせせらぎを耳に、満月の夜の澄んだ肌寒い空気に包まれて、私は生まれてはじめて酒を飲んだ。そしてはじめて松本という町、日本という国をこの身で実感したと感じた。「月を見て酒を飲むのって何というか分かる?」というYくんの質問に、二つ返事で月見酒だと返した。「なんで分かったん」「分からないよ。月見酒はだいぶ前に覚えた言葉だけど、今日初めて分かった。」日本という国も、ずっと前にその存在を知ったが、今夜の月見酒で初めて分かった気がする。

 Yくんは松本に来て初めてできた日本人の友達だ。九月の下旬に夜の温度はすでに二桁を切った。「こんな寒さの中でシャツ一枚で月見酒も何もないよ」と文句を言ったら、「酒を飲んだらすぐ暖まるよ」と笑った。

 けれどもそんな松本に出会い、私は劣等感を覚え始めた。「この人奨学金をもらって留学に来ている」、「この人日本語も上手な上に理系だ」、「ヨーロッパ圏から来た留学生たちは母語のほかに英語も話せる」などと知ったら、心が軽くどよめく。Yくんと何気ない会話をしていても、留学生のみんなとわいわいはしゃいでいても、心の底から楽しんでいても、劣等感という感情が黒い淀みのように心の隅に見え隠れする。

 とどろく太鼓の音を載せた車に続く、目が痛いほどくすぶる松明の煙が周囲を白く染め始めたら、いつの間にか街道が人の山になっていた。松明祭りってすごいな、荘厳だな、めっちゃ環境に悪そうだけど、などと感心していると、一緒に来た留学生たちとはぐれた。どうしようと悩むのも束の間、笛が響き出すのを合図に、松明の隊列が街道沿いに進み、人も流れ始めた。人に流されて私も歩き出し、人に流されて写真を撮っていた。そしたら息が切れそうにしているMさんがぴったりとカメラに収まった。

 「どうしたの?」と声を掛けた。

 Mさんのことはよく知らない。名前と顔を一致させることが精一杯だった。

 「走ってきた。」

 「なんで一緒に来なかったの?」

 「ポーランドで選挙が始まったの。今日投票のために東京の大使館に行った。そして急いで戻ってきた。」

 Mさんがポーランド人だということがここではじめて分かった。そしてはじめて劣等感という薄苦い感情を味わった。祭りの気分も松明の煙に巻き込まれて高く空に飛んだように、ほぼMさんに引っ張られて、地面を見て歩いていた。

 Yくんに打ち明けたら、「なんで?」と返された。「なんでだろう?」としか言いようがなかった。

 私「もうずっとここに住んでいたい。」

 Y「そうか?どこがいいんだよ、ド田舎だし」

 私はますます苦痛になった。「松本はいい町だよ。風情もある」と言ったきりだった。

 ある日の大学の帰り道にAさんとばったり会った。Aさんは台湾から来た。日本語があまり分からなくて、どうも中国語の喋れる私に親近感を抱いているらしい。なぜ日本に留学しようと思ったかと聞くと、ただの気まぐれだと返事して、今の日本での生活に苦労していることに愚痴を吐いた。女鳥羽川の橋を渡っていると、唐突に私は、「来年の台湾総統選、誰に投票する?」と聞いた。

 Aさんもびっくりしたように、「台湾の政治に詳しいの…」と聞き返した。そして政治にあまり興味がないと打ち明けた。私は苦笑しかできなかった。「自分もあまり詳しくない。ただ聞いてみただけ」と嘘をついた。

 それ以来私は、中国人と出会うたびに心が締め付けられるような思いになる。そしてAさんには怒りとも、嫉妬ともつかない複雑な気持ちが絡みついて、いよいよ劣等感の暗い炎が勢いを増すばかりだ。同じ東アジア人の顔をしていても、同じ言葉で話し合っても、両者の違いがまるで遺伝子レベルに切り刻まれたように鮮明に伝わってくる。

 Hさんとの出会いは、一番挨拶が短いのと同時に、一番印象に残っている。中国人だと自己紹介したら、Hさんが顔をほころばせ、矢庭に中国語で、「中国のどこから来た?台湾?それとも大陸の方?」と聞いてきた。私は変な顔をした。答えようとせず、何か反論しようとした。けれどもやはり何も言えず、なんとかその場をやり過ごした。

 「熊本でこんなことを口に出せば、すぐなぐられる。悪くすると国賊扱いにされる」。『三四郎』で一度読んだこのセリフが、1年も2年も経った今でも、なお暗記できるほど心に深く焼き付いている。怖いから口を噤んだか、それとも腹をくくって思うように言ってしまったところで何も変われやしないと思ったからか、自分でも分からなかった。戦前の日本という色眼鏡を透かして、今生きている松本を見ると、沖を隔ててすぐそこの母国のことが、遥か遠い存在のように思えた。

 私は自分より優秀な人に嫉妬をしているのではない。松本に出会って味わってきたこの劣等感の正体は、掴めた気がした。

 

 

 

◇審査員特別賞◇

君たちはどう生きるか

ゲ ヒジン

信州大学繊維学部応用生物科学科4年

韓国

 

 宮崎監督の最新作で最後の作品である『君たちはどう生きるか』。同名の小説から霊感をもらって作った作品で上映される前から話題になった作品だ。昔からジブリの映画をみて育てられた私は、初日にその映画を見に行った。映画が終わり、頭に浮かんだ考えは「私はどう生きればいいか。どう生きるのが正しいのか」だった。

 ヒトは誰でも豊かな人生を望む。では、豊かな人生というのは何か。それを論じる前に人生というのは何かについて考える必要がある。人生はヒトが今まで行ってきた行動から構成されているものだ。そして、その動機になるのが「欲求」というものだ。欲求は普段満たされる1つの客体として認識されてきた。人生のもとになるのが欲求なら、すべての欲求を満たせば豊かになるのか。この質問に答えるためには、欲求について詳しく説明する必要がある。

 マズローの欲求5段階によると、「ヒトの欲求は5段階のピラミッド型として存在し、下位欲求が満たされるまで、次の段階の欲求は行動の動機にならない。」という論だ。その5段階の欲求は以下の通りだ。

1.生理的欲求:命を維持するために必要なものに関する欲求。人間に必須だと思われる衣食主が例としてあげられる。

2.安全欲求:身体的な脅威や不安定な状況から離れたい欲求。不安定な社会も安全欲求を刺激する要因の1つだ。

3.社会的欲求:友達や家庭、社会から受け入れられたい欲求。所属感に対する興味の形で発散される。

4.承認欲求:これを満たすためには他者からの承認と自己尊重の意識などを求められる。この欲求が満たされなければ、無力感などの感情が生じる。

5.自己実現欲求:自分が持っている能力を発揮し、自分が達成できるレベルの中で最も高いレベルまで行きたい欲求。成長欲求などが含まれている。

下位欲求が満たされなければ、次の欲求が動機として作用しないことは、十分な睡眠をとれなかったら、災難のような不安定な状況の中でも寝ようとすることを考えられる。マズローの論は極端的な状況に限っていることではない。日常生活でも見つけられる。これをもとに私の留学生活を振り返ってみると、多くの思い出が浮かぶ。

 コロナ禍の中で日本に入り、慣れていない他国で適応するまで2カ月程度かかった。渡日まで専攻に関する専門用語を中心に勉強していたため、日常で使える日本語や会話は足りないところがあった。その時、留学生担当の学務係員さんと学校の先生たちのおかげで、新しい生活に適応できた。

 友達を作ったり、アルバイトを始めたりする考えもできず、日本に適応することに集中していた私が安定を感じたのは入国3カ月後だった。引っ越し先を探すころに家を決めて帰る電車の中で、不動産の店員さんと日本語だけで5時間以上話したことに気付いた。不安の要因だった言語の問題が解決されたことだ。それをきっかけに、私が入れそうなサークルやアルバイト先を探し始めた。

 それで、引っ越した後にある飲食店でアルバイトを始めた。学校という集団以外に属される新しい集団ができたのだ。4月になり、初めに対面で友達に会った時には私から先に声をかけて、学校外で会える友達もできた。様々な集団から所属感を感じながら、今よりいい成績を取りたいという承認欲求ができた。以前、変わった環境に適応することが優先だったことに比べて内的要因、つまり私に集中できるようになったのだ。その結果、成績が少しずつ上がりつつ、希望していた研究室に配属され、卒業論文を準備している。現在は最後の自己実現欲求を動機として卒業論文で最高の成果を出すことを目指している。

 このように段階別の欲求は人生の案内役にもなり得る。欲求に従って行動すれば、みんなが豊かな人生を生きられるのか。残念だが、それ以外に考慮しなければならないものがある。

 自分の行動が他者と社会に及ぼす影響だ。たとえば、誰かが他人から認定されたい欲求で、自分が持っていないものを持っているふりをして人々をだましたとしよう。しかし、それは作られた偽の自分で、承認欲求を完全に満たせない。もし、本当に承認欲求が満たされたとしても、だまされた被害者がいれば、それは正しく欲求を充足したといえない。したがって、欲求に従って行動する時には、その行動が妥当か検討する必要がある。

 また、多くの選択肢の中で、社会に良い影響を与える行動を選ぶことも1つの方法だ。ヒトは社会と相互作用しているものなので、社会に影響を与えるだけではなく、社会から影響を受ける。したがって、社会の利益を考えるのは自分の豊かさに近づくのと同じだ。

 最後に、豊かな人生は一瞬で得られるものではない。今後、自分だけを考えず、欲求を満たすのに偏らない人生を生きていくのだ。そして、息が絶える瞬間に豊かな人生を生きたと言いたい。

 

 

 

◇泉北クラブ賞◇

留学によって切り開く私の人生

信州大学工学部物質化学科

アンマル イスワディ

マレーシア

 

 私はマレーシア出身の留学生として、今年から信州大学での学生生活をはじめました。松本という素晴らしい場所に住むことで、さまざまなことを経験することができました。そして、私の人生は留学によって切り開かれたと思います。私の人生が留学によってどう切り開かれたか、そして、どのようなことを経験したかについて話していきたいと思います。

 まず、私にとって留学はとても大きな挑戦でした。全く新しい場所でゼロからスタートするのはかなり困難でした。最初は孤独で寂しかったです。私は実はマレーシアと日本のハーフです。父がマレーシア人で、母が日本人です。私はマレーシアで育っていましたが、家では日本語を使っていたので、日本語は日常会話程度なら問題なく話せます。そして、今まで何回も日本にきたことがあり、日本の文化に触れる機会も多かったです。しかし、1人で日本で暮らしたり、生活したりするのは初めてなので、とても不安でした。しかし、一人暮らしをすることで、自炊や家事などを自分でやれるようになりました。今まで母親の家事の手伝いをしていました。そのため、一人暮らしの役に立ちました。この挑戦が私の成長へと導いたと思います。

 信州大学での大学生活も私にとって素晴らしい冒険です。授業は非常に興味深く、教育の質も高いです。自分の専門以外に、様々な知識を得られることができ、新しいことにも挑戦することができます。例えば、映画の歴史やウェブサイトの作り方など、今まで学んだことがないことも信州大学では学ぶことができ、とても興味深いです。また、大学で参加したダンスサークルは、私にとって大きな楽しみであり、新しい友人を作る場にもなりました。私は高校の時にダンスに興味をもち、やりはじめました。しかし、学校ではダンスサークルなどのような活動がなかったので、1人で趣味としてやっていました。そして、大学に入り、ダンスサークルの存在を知り、とても嬉しかったです。そこではダンスが好きな人が集まり、さまざまなダンスのふり、動き、構成のアイディアを一緒に考えることができ、とても勉強になります。

 それに、信州大学では、日本人学生とだけでなく、他の国からの留学生とも交流することができます。中国、アメリカ、韓国、ブラジル、アルゼンチン、ベトナムなどさまざまな国からの学生と出会うことができます。お互いの国の文化を教え合い、仲良くなることができます。それぞれの国の文化、考え方などの違いや料理を知ることができ、とても面白いです。また、彼らの母語を学ぶことができます。「こんにちは」、「さよなら」などのような挨拶、数字、日常生活で使う簡単な言葉なら、簡単に覚えられます。教え合うことで、より仲を深めることができます。

 さらに、長野県に来て、様々な観光スポットに訪れる機会がありました。当然松本市に住んでいるので松本城や四柱神社などに行きました。とても綺麗で、日本の伝統が見られました。自然環境に囲まれていて、風景がとても素晴らしいです。私はちょうど春の時期に行ったので、桜の木に囲まれて松本城がとても綺麗に見えました。それ以外に、上高地にも行きました。山、川、森に囲まれ、とても美しい自然環境でした。自然の中でリラックスする場所としてとても良い場所だと思いました。私にとって新たな発見と冒険の場でした。また、長野県は日本アルプスなど山の景色がきれいで、心が落ち着き、勉強に集中することができます。異なる風景や文化に触れることは、私の視野を広げ、新たな価値観を得ることができました。

 留学によって切り開かれた私の人生は、新しい視点や考え方を持ち、視野が広がったと思います。異なる文化や言語を理解することで、国際的な視野を持つことができ、異なるバックグラウンドを持つ人々と交流し、話したり、協力することができます。また、新しい趣味や興味を見つけ、自分自身に向いていることを探すことができます。この自己成長のプロセスを私は楽しんでいます。留学によって切り開いた新たな人生は、挑戦と冒険であり、私にとって非常に意義のあるものとなりました。この経験を通じて、私は自分自身をより深く理解し、将来のキャリアや人生の目標を明確にすることができます。そして、新しい友人とのつながりや、学んだことを生かすことで、私の留学経験はより豊かで充実したものになりました。大学卒業後も付き合えるような友人を多く得て、充実した大学生活を送りたいと考えています。また、人生は常に成長と学びの旅であり、新たな挑戦が待っています。将来に向けて、留学でしてきた経験を活かし、世界をより理解し、貢献できる方法を見つけて行きたいと思います。私は日本とマレーシアの文化の両方に触れているので、それぞれのいいところを自分の身に吸収し、今後の人生に生かしていきたいと考えています。いつかこれらのことが自分の役に立つと思うので、今後も様々なことを学んでいきたいと思います。

 

 

 

◇桃園クラブ賞◇

留学生によって切り開く私の人生

リーラ・グルークリット

丸の内ビジネス専門学校国際関係学科日本語コース2年

タイ

 

 今、いろいろなことを考えながら音楽を聞いています。日本に住んで1年が経ち、様々なことを経験しました。良いこともあれば、大変なこともありました。この作文は私が経験したことを書きます。

 ある日、私は日本人に「どうして日本に来たの」と聞かれました。それで、私は「日本で就職したいので留学しました」と答えました。でも、それだけではなく、その方はまた私にたくさんの質問をしてきました。例えば、「お国はどちらですか」、「どこで勉強していますか」、「誰と住んでいますか」などです。このような質問はよく聞かれました。みなさんは私のことを知りたいのだと思います。では、自己紹介から始めます。私の名前はリーラ・グルークリットと申します。皆さんからリーラと呼ばれています。タイから来ました。バンコクに住んでいました。兄弟は弟が1人います。初めて日本に来たのは去年の10月です。その時期は日本人にとって涼しい気候だと思いますが、私タイ人にとっては寒かったです。どうして寒かったかというと、タイは暑い国なので、10月のような気温はめったにありません。「どのぐらい暑いですか」と聞かれたら、「肝臓が破裂するほど暑いです」と答えるでしょう。私にとって初めての海外旅行は日本です。他の国は行ったことがありません。

 私の生活は留学生の皆さんと同じ生活です。勉強したり、アルバイトしたり、遊んだりします。皆さんも同じような想像をするでしょう。ただ、それは簡単なことではありません。授業中は皆さんが日本語で話すので、最初はよく分かりませんでした。その頃とても大変でしたが、今は慣れてきて話せるようになりました。もちろん先生が教えてくれることも理解できるようになりました。学校では勉強だけではなく、学校の行事もあります。スピーチや作文の発表、ボランティア活動などです。学校の中でいろいろな事をしたり、勉強したりするのは面白いことです。ただ、勉強するだけではつまらないでしょう。

 毎日学校が終わってから、すぐにアルバイトに行きます。学校から職場まで少し遠いので、自転車に乗ったり、電車に乗ったりしています。初めてのアルバイト先はドン・キホーテ南松本店です。ずっとここでアルバイトをしています。タイでもアルバイトをしたことがありません。だから、最初はとても大変でした。お客さんが多くて、商品もたくさんあります。お客さんに聞かれた時、何もわからなくて困りました。でも、慣れてきた今ではバナナの皮をむくぐらい簡単です。これは冗談ではありません。同僚はほとんど日本人です。外国人は3人しかいません。最近会社員と仕事をしているので、頼まれることは通常より難しいです。同時に楽しいです。様々な人とアルバイトするのは良い経験になります。

 アルバイトが終わったら、急いで帰ります。シャワーを浴びて、晩ご飯を食べて、家事をしてから、自分の部屋に入ります。この部屋はまるで私の世界みたいです。自分の時間を自由に使えるからです。部屋に入るたびに椅子に座って音楽を聴きます。その後他のことをします。だいたいは勉強です。夜の勉強は自分が苦手な所を直して復習します。勉強するのは良いことですが、疲れている時もあります。頭が痛くて、勉強したくない時はアニメを見たり、マンガを読んだりしています。このような時間も大切です。

 私の趣味は音楽です。ギターも弾きますが、日本の音楽を聴くことが多いです。私は、「X-Japan」という日本のバンドが大好きです。日本人にとっては、それは日本の音楽だと思わないかもしれません。メンバーは全員日本人ですが、歌詞は英語と日本語で書かれています。それは珍しいです。私は「X-Japan」の全てが大好きです。メロディーも良いし、歌詞の意味も良いし、歌手の声も美しくて、とても良いです。「ENDLESS RAIN」という曲は一度も聞いたことがなければ、この曲はおすすめです。私が一番好きなところはhideさんのギターソロです。

 最近、私の勉強している学校では七十五周年記念式典の練習をしています。学生みんながいろいろなことに参加することが出来ます。ダンス、スピーチ、ファッションショーなどです。私は楽器ができるので、日本人とバンドを作りました。メンバーが6人います。私のポジションはギタリストです。忙しくても七十五周年記念式典のために頑張って練習します。

 日本に来てから様々な人に出会って、いろいろな経験をしました。1年たっても私の日本語はそんなに上手ではありません。早く日本人のように日本語が話せるようになりたいです。これから大変な事があっても頑張れば出来るのだと思います。これから、アルバイトも勉強も引き続き一生懸命頑張ります。この世界で不可能なことはありません。この世界で怖いことはほとんどありませんが、一番怖いのは好きな事ができないことです。だから、いろいろな事に挑戦します。もっと勉強したい、もっと頑張りたいです。

 

 

 

◇山梨YMCA特別賞◇

大切な選択、人生の再出発

Zang Weichen ザンウェイチェン

信州大学医学部医学系研究科1年

中国

 

 「人生の豊かさ」について言及すると、それは非常に哲学的な問題です。なぜなら、個々人にとって、人生の豊かさについての価値観や意味は人それぞれの考えを持っていると思うからです。私にとって、留学生としての人生の豊かさは特別な意味と重要性を持っています。

 私が大学生だった頃、留学することはまったく考えていませんでした。当時の私にとって、一番重要視していたことは良い仕事を見つけ、一般の人々と同じようにな普通の生活を送ることでした。しかし、周りの環境の影響を受け、私は大学院への進学を決意しましたが、結果は不合格でした。

 大学院進学のために多くの時間と労力を費やしましたが、望む結果は得られませんでした。その時、私は落胆したのと同時に、将来の進路について不安に包まれ、進路をどうすべきか分からなくなりました。しかし、この挫折こそが自分自身を再評価し、どのような人生を自分が歩んでいきたいのかについて考えるきっかけとなりました。自身の能力を高めるために留学する決断を下すことは非常に勇気のいるものでした。これは故郷を離れ、新しい文化と生活様式に適応し、新しい言語を学ぶ必要があったからです。これは非常に不安なことでしたが、日本でさまざまな経験を積むことによって自分に自信が持てるようになりました。

 初めて日本の地に足を踏み入れたとき、文化的な衝撃と興奮に包まれました。すべてが馴染みのないもので、言葉、食べ物、日常のエチケットまで、すべてが新鮮で興味深いものでした。そして、私が最初に訪れたのが東京という、活気に満ちた賑やかな都市でした。初めての異国の地で、私はネオンの光、賑やかな人ごみ、見慣れない言語や文字があふれる街中で不安を感じることがよくありました。言語学校は私に最初であり、同時に東京での生活への適応の最初のでもありました。ここで、私は日本の言語と文化を学び、日本で生活するための知識などを身に付けていきました。また、言語学校では、異なる国から来たクラスメートと出会い、さまざまなバックグラウンドを持つ人々との交流を通じて知識と文化を共有しました。これらの友情は私の社会的な関係を豊かにするだけでなく、グローバルな多様性を理解するきっかけにもなりました。東京での生活では、ユニークな文化的体験も経験することができました。桜の花祭りなどの伝統的な祭りに参加したり、古代の寺院や現代のショッピングセンターを訪れたり、伝統的な寿司やラーメンを楽しむことができました。これらすべては、東京という都市に対するより深い理解を得るのに役立ちました。

 その後、私は勉学に励み努力の末、信州大学に合格しました。信州大学のキャンパスに初めて足を踏み入れたとき、期待と希望に満ちていました。この新しい環境、新しい分野の世界で、ゼロから学び、専門的な知識を蓄積する必要がありました。研究室では、細胞培養、実験手順、実験の設計など、初めて触れる分野が多くありました。しかし、それが馴染みのない分野であるからこそ、私はさらに努力して学び、探求しました。失敗は次につなげるための貴重な経験であり、成功は私に自信をつけることができました。ゼロから知識を蓄積し、困難を乗り越え、徐々にこの分野の世界に没頭していきました。この厳しい学びの経験は、前進し続けるための力となりました。

 学術的な挑戦に加え、日常生活の変化も重要な課題でした。松本市が私の新しい故郷となり、すべてが馴染みのないものでした。松本市は静かで美しい市で、松本城公園や周辺の山々など、見事な自然景観が広がっています。週末にハイキングに出かけ、自然の壮大な景色を楽しむことは私の生活を充実させてくれました食べ物も生活の大きな楽しみの一つでした。伝統的な寿司やラーメンから新鮮なリンゴやジャガイモなど、幅広い料理が楽しめました。これらの美味しい料理は味覚を満足させるだけでなく、地元の文化をよりよく理解することにもつながりました。

 ただし、松本市での生活には大変なことも多くありました。買い物、掃除、交通など、日常生活の雑事を一人で処理する必要があり、見知らぬ街でこれらの簡単なタスクが複雑で挑戦的なものになりました。同様に、この新しい環境で新しい友達や知人と出会いました。一緒に学び、一緒に生活し、お互いをサポートし、国際留学生活の微妙なニュアンスを共有することで、私は一人ではなく温かいコミュニティの一部であると感じました。

 信州大学での生活は、学術的な面だけでなく、生活への適応力を養いました。最初は準備が不足していたかもしれませんが、ゼロから始める意志を持っていました。この経験は、学業と生活の両面での挫折が成長の機会を与えてくれるものであると思います。

 人々はしばしば「人生は儚いもので、朝露のように速く過ぎ去る」と言います。誰もが人生の長さを変えることはできないかもしれませんが、私たちは周りの環境や生き方次第で人生を豊かにすることはできます。ここで、ある言葉を共有したいと思います。「人生には出会うために待っている美しいものが数え切れないほどあります。最も良い年齢において安い価値のある生活を送ってはいけません。自分を豊かにし、経験し、踊り、自分を貴重な存在にしましょう。」今日から、他人を喜ばせる時間を自分を豊かにするために使ってください。読んだ本、歩いた道、出会った人々、示した親切?これらすべては最終的にあなた自身の人生に還元されるでしょう。