第26回アジア賞入選作品 | ||
◇最優秀賞◇ 私の住んでいる町、出会った人 シ イ(SI WEI) 出身国:中国 信州大学大学院総合医理工学研究科 麻酔蘇生学博士2年 ◇優秀賞◇ ◇優秀賞◇ ◇伊藤賞特別賞◇ ◇泉北クラブ賞◇ ◇桃園クラブ賞◇ ◇山梨YMCA特別賞◇ |
◇最優秀賞◇ 私の住んでいる町、出会った人 シ イ(SI WEI) 出身国:中国 信州大学大学院総合医理工学研究科 麻酔蘇生学博士2年 ちょうど「君たちはどう生きるか」が公開されたタイミングで、私も自分の人生に対して同じような疑問を抱き、松本に移住した。当時、私は26歳であり、麻酔学の修士課程を卒業したばかりだ。ずっと医師を志している私は、北京の大学病院で直接に就職すると、夢を順調に叶えたとは言えただけでなく、人に褒められるような人生を過ごしていると言っても過言ではない。なぜか人生の岐路に立った時、急に心が揺らいでしまったのだろう。 要約すると、コロナ禍の厳しい状況で、医者と患者の信頼関係が簡単に崩れることや、臨床現場でどんなに努力しても救えない命があることを痛感したことを何度も経験した後で、「人々の思いの結びが感じられない」「人に優しく接する余裕がない」「自分の能力に自信が持てない」と言う重たい気分が心に積もって行った。そのままで就職すると、頼れる麻酔専門医になれるのか、そうした不安が私を悩ませたのだ。だが、もっと勉強して視野を広げれば、自分なりの答えが見つかるのではないだろうと思い、信州大学の麻酔学博士課程に進学することにした。 あっという間に一年が経ち、今27歳の私が、松本で出会ったあらゆる年齢層の人と触れ合う中で、「どう生きるか」という問いに対する答えも、少しずつ見えてきた気がしている。 松本に来る前、いくつかの日本の都市を旅行したことがあるけれど、実は長野県には一度も訪れたことがない。右も左も分からない最初の頃、私を支えてくれたのは信州大学で出会った親切な人々だった。この中で、一番心を打つ出会いは、信大女子ラクロス部の皆様との出会いだ。 中国ではラクロスはあまり知られていないスポーツですが、日本に来たらぜひ試したいと思っており、信大女子ラクロス部と連絡を取ってみた。「大学院の留学生として部活に参加するのは、少し変ではないか」という不安な気持ちを抱きつつも、思い切って見学を希望した。意外にも皆様がとても温かく迎えてくれた。主将そらさんは、私の出身も経験も気にせず、ゼロから真剣にラクロスのやり方を教えてくれた。部員たちも初対面でも話しやすく、練習の休憩中に色々声をかけてくれ、クリスマスパーティーにも誘ってもらった。 女子ラクロス部のスローガンは「繋」だった。普段の練習は決して楽なものではなく、怪我をすることも常にある。しかし、仲間とともに強くなりたいという気持ちを共有し、困難なときも支え合って前向きに頑張る姿に、久しぶりに心が震える思いがした。私も皆さんの熱意と好意に応えられるよう、元気に頑張らないといけないと改めて感じた瞬間でした。 次に感謝したいことは、あがたの森通りにある「アルプスごはん」という食堂の店主、金子さんとの出会いです。 初めて来店の時、ちょうど閉店間際で、お客さんが私一人だった。お店の落ち着いた雰囲気の中で色々な話をするうちに、なんと金子さんが、以前、北京で鈴木食堂という日本風食堂を出店していたことがわかり、驚いた。私もよく通っていたお店だったので、北京の話で盛り上がりながら、美味しい料理をいただき、素晴らしいひとときを過ごした。帰り際に、金子さんが「北京で皆様に色々お世話になって、本当にありがたいです。松本で困ったことがあったら、いつでも言ってください」と言い、「弁当の作り方」というご自分で書いた本まで、プレゼントしてくれた。 今では常連になる私が、金子さんとはよく北京や松本での思い出を話し合う。また、松本の他の料理人の方々からも、金子さんがいかに料理に情熱を注いでいるかという話を聞くことができた。北京に一時帰国した際には、鈴木食堂にも挨拶に行き、料理を通じて遠く離れた人々と繋がっていることを改めて実感した。 「アルプスごはん」の隅には、「すべてはタイミング」という言葉が飾られている。やはり料理も出会いも、本当に「すべてはタイミング」なのだと感じる。また、どんな小さな好意も、必ず形を変えてどこかで伝わっていくものだと改めて思った。 そして、もう一つ印象的な出会いは、信州大学の近くで「飯田自転車店」を営むおばあちゃんである。ある日、そのお店に入ると、テレビの音が流れているのに、なんと店内は人がいなかった。目についたのは、壁に貼られた「自力更生」という書道作品と、たくさんの賞状だった。奥の部屋には、日付ごとに並べられた薬が整然と置かれ、おばあちゃんが台所で何かを整理しているのが見えた。何度か「こんにちは」と声をかけ、おばあちゃんが聞こえないようで、静かに外で待つことにした。 ようやく気づいてくれた80代ごろのおばあちゃんは、急に元気いっぱいの専門家のような表情になり、私を驚かせた。おばあちゃんは、細かいところは目が少し見えないので、私が代わりに、指導を受けながら作業を遂行した。パンクのタイヤの交換にかかった時間は、待っている時間よりも短く感じた。 帰り際、おばあちゃんが「よく助けてくれたから、五百円を返してね!」とお金を渡してくれたのが、今でも心に残っている。その小さな重みのある五百円を握りしめて帰る途中、不意に涙がこぼれて来た。「私も、このような小さな幸せを返していける医師になりたい、平凡だけど美しい人々の生活を守りたい」と強く思った瞬間だった。 信大病院で北アルプスの景色を眺望する時、「松本に来て本当によかった。人生は美しく、生きがいがあるものだ」といつも感じている。このようにさまざまな出会いを思い返すと、疲れた時でもやる気が出でくる。 尊敬する坂本龍馬の言葉に「死んでいった者たちに報いるためには、もう一度生まれてきたいと思える国にすることじゃ、生き残った者の役割じゃ」というものがある。私が出会った人たちのため、またこの町のため、この気持ちを忘れずに、頼れる医師を目指して前に進んでいきたいと思っている。 ◇優秀賞◇ 留学によって切り開く私の人生 チンショウイ(陳紹維) 出身国:台湾 信州大学グローバル化推進センター 日本への留学を決めた時点から、文化や価値観、特に日本人同士を思いやりの姿勢について深く理解したいという強い思いがありました。台湾で日本語を学び始めた六年前から、日本人の優しさや他人を気遣う態度には大きな魅力を感じていました。しかし、そのような日本人の特徴がどこから来るのか、ずっと気になっていました。この留学生活を通じて、私が抱いていた疑問が、実は日本語の表現に反映された日本文化から来るものであることに気付きました。 その一つの例として、私が非常に印象深く感じているのが、日常のやり取りでよく耳にする「お疲れ様」という言葉です。部活や授業の後、日本人の友たちが「お疲れ様」と声を掛けてくれるのを何度も経験しました。『日本国語大辞典』によれば、「お疲れ様」は「疲れたと思われる人を敬い、気遣って言う挨拶」で、一緒に取り組んだ活動をねぎらって、感謝と敬意を込めて掛けるあいさつだとされています。台湾では部活の終わりに「お疲れ様」と言う文化はあまりないので、初めは新鮮だと感じていましたが、今ではこの響きが私に「今日も頑張った」という充実感と達成感を与えてくれるようになりました。仲間や友たちと「お疲れ様」と言い合うたび、部活への喜びと共に、互いに支え合う気持ちを実感しています。 また、日本の言葉遣いには、日常会話の中にも優しさや配慮が多く込められていると感じています。例えば、電話で相手の声が聞き取りにくい時、私の母語の中国語では「聞こえません」や「大きな声で話してください」といった直接的な表現が一般的です。しかし、日本では「お電話が遠いようです」と、婉曲的で、しかも礼儀を持ちながら状況を伝える表現が使われています。相手に不快感を与えないよう配慮する言葉遣いに、私は日本語特有の間接的な言い回しの美しさと奥ゆかしさを感じるようになりました。このような言い方を通じて、言葉の奥にある他者への心配りが垣間見えるのです。 さらに、日本に来てから「ご遠慮」や「お控え」といった表現にも触れる機会が増えました。台湾での案内表示が非常に直接的で、禁止事項が「禁止」そのままに書かれていることが一般的です。しかし、日本には「ご遠慮」や「お控え」という、いわば「相手の判断に委ねる」言葉が多く使われています。初めて「ご遠慮」という表示を見た際は「禁止ではないのか」と少し混乱しましたが、日本人の友たちが「遠慮」の意味やニュアンスについて教えてくれてから、そのほんとの意味を理解することができました。 日本語で「遠慮」は元々「遠くのことをよく考える」という意味を持って、そこから変わって、相手が自らの判断で行動を控えるようと促す表現へと発展したと聞きました。「ご遠慮」という表現には、相手を信じてその行動を委ねる柔らかさがあって、「禁止」とは異なる控えめで思いやりのある伝え方だと感じました。こうした表現方法は、相手を尊重しながらも、思いやりと敬意を持って望ましい行動を促す点で、日本語の美しさを再び感じさせてくれます。 留学を通じて、日本語の細やかな表現が日本人の考え方や価値観を映し出していることにも気付かされました。例えば、「お疲れ様」や「ご遠慮」という言葉に込められた思いやりの感覚は、教科書からの単語や文法だけでは学ぶことのできない日本文化の奥深さを感じさせます。特に「お疲れ様」という表現を通じて、私も自然と相手の努力や貢献を意識しながら、互いに感謝の気持ちを伝えることの大切さを学びました。 このように日本での生活を通して、相手への思いやりや気遣いが自然と自分の中にも芽生えるのを感じるようになって、母語の中国語にも良い影響を与えていると感じます。たとえ母語に日本語のような繊細な表現がなくても、他者の立場を考えながら言葉を選ぶようになって、以前よりも丁寧に言葉を使うようになりました。日本語を学んで、異文化に触れたことで、台湾でもより思いやりのある態度を示せるようになったと感じます。このようにして日本での生活を通して学んだ「思いやりの表現」は、私の人生にとって大切な宝物となりました。 日本での留学経験は、単に言語や文化を学ぶだけにとどまらず、私自身の価値観や人間としての在り方にも影響を与えて、未来への新たな可能性を切り開いてくれました。将来、自分の専攻である翻訳や翻訳で働く際にも、日本で学んだ「思いやり」を大切にしていきたいと思います。そして、異なる言語や文化の間に立つ役割として、日本で得た温かい心遣いや柔らかな表現を生かして、他者と心からのコミュニケーションができる人になりたいと願っています。 まだ日本での留学生活は続きますが、残りの時間も積極的に学びを深めて、日本で得た価値観や温かい心遣いを自分の人生に刻み込んでいきたいと考えています。将来、私の人生がより多くの人に支えられて、思いやりを持って豊かな人生にしていきたいと思います。 ◇優秀賞◇ 留学によって切り開く私の人生 孤独の中で自分を見つけ、強さと信頼を育む グエン・ホアン・ティエン 出身国 : ベトナム 信州大学工学部機械システム工学科 留学生活を通して、私にとって長野市での日々は、ただの知識や文化を吸収する旅ではなく、心の奥深くに眠る自分と向き合い、真の自己理解へと至る道のりでもありました。信州大学機械システム工学科の4年生として学んでいた24歳の私は、希望と夢に満ちた新たな一歩を踏み出しましたが、現実は予想以上に厳しく、母国語とは違う言葉で繋がりを見つける難しさと、時折り襲ってくる孤独の冷たさに、心が震えたことも少なくありません。 ある日、特に印象深い出来事が訪れました。それは、私がグループ発表の責任を一任された時のことです。アルバイトで忙しい仲間に代わり、時間があった私はプレゼンテーションを引き受けることになりました。テーマは「繋がりを求める人々」。この言葉は、日本での孤独と共に過ごした日々の中で、自分が考え、求め続けてきたものでもありました。発表では、日本人が持つ特徴的な振る舞いについて触れました。怪我をして血が滲んでいても、相手に「大丈夫?」と問われると、彼らは決まって「大丈夫です、ありがとうございます」と微笑みます。表面上は何事もないかのように振る舞うものの、その裏側には痛みや不安がひっそりと横たわっているのです。多くの日本人は「疲れた」や「辛い」といった本心を口にすることをためらい、まるで感情を折りたたむように隠してしまうことが、私にはとても印象的でした。 この経験を経て、自分自身についても、さらに深く考えるようになりました。私もまた、異国の地で見えない壁を感じつつ、自分の弱さをさらけ出すことを恐れ、感情を心の奥底に押し込んでしまうことがある。誰かに迷惑をかけてしまうかと、不安や寂しさを抱えながらも、自分を支えるしかない。そうした孤独の中で心はどんどん重くなり、出口の見えない霧の中で迷子になったような気持ちに陥るのです。 発表が終わると、先生は深い眼差しでクラスを見渡し、私たちに一筋の希望の光を投げかけるように、こう語ってくれました。「人生というのは、疲れたとき、辛いとき、心の内を話せる相手を求める旅かもしれません。皆さんがそういう人にまだ出会えていなくても、皆さん自身が人生において最も強い戦士であることを忘れないでください。強い人は多くの傷を負っているものです。誰もその人のすべてを満たすことはできないからこそ、自分が自分を支え、自らのニーズを満たす力が必要なのです。そのことを誇りに感じ、自分がこれまで成し遂げたことの素晴らしさに気づいてください。」 この言葉は、心に深く刻まれ、留学生活という荒波を乗り越えるための灯火となりました。 日本での生活で私が向き合っていた最大の試練は、学業や経済的な困難ではなく、感情との折り合いをどうつけるか、そして孤独の中でも自己と向き合い、乗り越えていく術を見つけることだったのです。すぐに誰かが私を理解してくれるわけではないけれども、自分こそが最も強い味方となり、自分の心を理解し、癒し続けることの大切さに気づかされた瞬間でもありました。 過ぎ去った日々を振り返ると、あの孤独と葛藤の中で私が得たものは、自分の芯に宿る強さと、困難に折れずに立ち向かう勇気でした。長野での日々は、ただ単に異文化を学ぶだけの体験ではなく、自分を支え、信じる力を身につける時間でした。自分自身の支えがあったからこそ、今、少しずつ自信を持って他者と繋がる方法を学び、自己信頼を築くことができたと感じています。 この経験は、私の人生の確固たる礎となり、これからも私を導いてくれることでしょう。孤独や不安を感じることは、必ずしもネガティブなことではなく、私にとっては自己理解と成長のきっかけでした。留学という旅は、知識を得ること以上に、自分と繋がり、心の内に宿る誇りと信頼を見つけるための道のりだったのです。これからもこの誇りと信頼を胸に、自分自身の道を切り開き、新たな挑戦へと踏み出していきたいと思います。 ◇伊藤賞特別賞◇ 留学によって切り開く私の人生 出身国: ベトナム 信州大学経法学部応用経済学科 チャン ティ カム リ(TRAN THI CAM LY) 私の人生には、家族、友人、勉強、仕事など、たくさんの大切なことがある。私はこれらすべてのことのバランスを取るように常に努めている。なぜなら、家族や友人がいなかったり、安定した仕事がなかったり、自分を成長させる努力を怠ったりすれば、良い生活を送ることはできないと理解しているからだ。自分を成長させ続けなければ、理想を持たない人間になってしまい、社会に価値をもたらすこともできなくなると気づいていた。これは、高校生の頃から私が常に心に留めていたことだ。これらの価値観こそが、今の私の人生で最も大切なものだと思っていた。しかし、日本に来てから、人生のそれぞれの段階では、優先すべきことが異なると気づいた。そして、この国で、私はすべての中で最も重要なことを理解した。それは、私は単なる留学生ではなく、ベトナムの若い世代の日本での留学生を代表し、文化を繋ぐ架け橋であるということだ。 なぜ、今この時点でこのことが私にとって非常に重要だと気づいたのかを説明するために、私が日本に来たばかりの頃の話を共有したいと思う。私は2022年5月に、朝日新聞の奨学生として日本に来た。主な仕事は新聞配達だった。しかし、最初の頃は、怠けがちで、よく寝坊したり、遅刻したりして、配達が遅れてしまうことがよくあった。さらに、新聞を間違えて配達することも頻繁にあった。このような失敗が繰り返されていたにもかかわらず、私は努力して改善しようとはせず、謝れば済むだろうと考えていた。自分は外国人だから、皆が理解してくれるだろうと思い込んでいたのだ。かえって、謝罪を繰り返すうちに、周囲の人々との距離を感じ始めた。彼らは私に対して不快感を抱くようになり、私は自分が無責任で、周囲に迷惑をかけていると感じるようになった。 ある日、突然、私の心にある考えが浮かんだ。「自分の行動が、日本人にベトナム人を嫌わせる原因になっていないだろうか?次世代のベトナム人留学生たちは、奨学金をもらえるだろうか?」と。この考えは私の頭の中をぐるぐると巡り続け、私は日本に来て勉強するだけではなく、今後日本で学ぶことになるベトナムの若者たちを代表しているのだと気づいた。もし私が、日本人にベトナム人に対して悪い印象を与えるようなことをすれば、私は無意識のうちに、次世代のベトナム人留学生たちに悪影響を及ぼしてしまうのだ。彼らは全く無実であり、私が与えた偏見を受けるべきではない。この認識は、私自身やベトナムの留学生コミュニティに対する私の責任感を大きく変えた。 それ以来、私は自分の行動一つ一つに真剣に向き合うようになった。自分の小さな行動が、私自身に影響を与えるだけでなく、日本人がベトナムやベトナム人に対する見方に影響を与えることを理解した。新聞配達という仕事を一時的な責任としてではなく、ベトナムの留学生の勤勉さと熱意を証明する機会と考えるようになった。私は仕事に集中し、時間を守り、すべての仕事を正確に完了させることに努めた。徐々に、周囲の人々が私に対する態度が変わっていくのを感じた。彼らは私を信頼し、尊重してくれるようになった。仕事のやり方や態度を変えるだけでなく、私は周囲の人々にベトナムの文化や人々について共有することの重要性にも気づくようになった。日本は豊かで伝統的な文化を持つ国ですが、多くの日本人はまだベトナムの文化についてよく知らないのだ。私は、二つの文化を繋ぐ架け橋として、ベトナムの美しい文化を日本や国際社会に紹介する責任を持つようになった。それで、日々の同僚との会話を通じて、私は彼らにベトナムの伝統的な習慣について話した。たとえば、家族が集まる旧正月(テト)や、フォー、バインミー、ブンチャーといった郷土料理などだ。多くの同僚は、ベトナムの家族の価値観が日本と似ている部分もある一方で、異なる面もあり、非常に興味深いと感じてくれた。 個人的な話にとどまらず、私は彼らにベトナムの若い世代の学ぶ意欲や向上心についても話した。ベトナムの経済成長の裏には、一人一人の個人、そして世代を超えた変化への絶え間ない努力があることを知ってもらいたかったのだ。このような会話を通じて、私は日本人がベトナムの留学生をどう見ているかを変える手助けをしていると感じるだけでなく、彼らに現代のベトナムについてもっと理解してもらうことができた。ベトナムは現代的で、活気に満ち、将来性に溢れた国なのだ。また、これらの会話を通じて、私は日本人からも多くのことを学んだ。仕事に対する姿勢、時間を守ることの重要性、細部にまで気を配ること、そして彼らが自国の伝統を大切にしている姿勢などだ。文化交流は一方通行ではなく、互いに学び合い、お互いの文化や考え方を理解し合うことで、私たち全員がより豊かな視点を持てるようになるのだ。 自分を変えることは、単に職場環境を改善するだけでなく、留学生としての役割と責任を深く理解することにも繋がった。私はもはや留学の夢を追いかける一個人ではなく、国際社会の一員として、ベトナム人の良いイメージを国際社会に築く役割を果たしているのだ。この経験から、私は一人一人の小さな努力が、より大きなコミュニティに対しても積極的な影響を与えることができると気づいた。私たちの責任は自分自身だけにとどまらず、これからも留学を続ける多くの世代にまで広がっているのだ。これらの経験を通じて、私は成長することができ、試練のたびに、自分がより良い自分へと変わるチャンスが与えられていることを学んだ。私たち一人一人が、どんな立場にいようとも、自分自身だけでなく、周囲のコミュニティに対しても責任を持っているのだ。私たちは単に夢を追いかける個人ではなく、国際社会において、自国の文化を代表する存在でもある。私たちの行動、言葉、そして態度が、私たちの出身地について世界がどう見るかに影響を与える。そして、私の小さな努力が、現在だけでなく、未来の世代にも良い影響を与えることができると信じている。 ◇審査員特別賞◇ 留学によって切り開く私の人生 リュウ クンナン 劉 君男 出身国:中国 丸の内ビジネス専門学校ビジネス科 私は劉と申します。24歳で、現在長野県松本市に住んでいます。日本に来て四年になります。この四年間で、日本の文化や習慣に触れ、さまざまな経験をしてきました。日本での生活は私にとって貴重な学びの場であり、多くの友人や知識を得ることができました。 日本に来てから、さまざまな観光地を訪れる機会がありました。例えば、長野県の名所である上高地は自然が美しく、初めて訪れたときはその風景に圧倒されました。澄んだ川の流れや雄大な山々が広がる光景は、まさに心の癒しとなります。また、京都や奈良などの古都も訪れ、日本の伝統的な建築や歴史に触れることができました。特に京都の清水寺や伏見稲荷大社では、多くの観光客とともに日本の文化の奥深さを感じました。 松本市内でも、友人と一緒に松本城を訪れたり、市内を散策したりしています。松本城は日本の歴史を感じることができる場所で、特に夜になるとライトアップされ、その美しさが増します。また、市内には小さなカフェやレストランも多くあり、友人とリラックスしながら日本の食文化を楽しむことも私の日常の楽しみの一つです。 私が通っている学校は、外国人留学生も多く、さまざまな国から来た同級生と交流することができます。特に仲良くなった友人は中国やミャンマー、ネパールからの留学生で、お互いの文化や生活習慣について話し合うことで、視野が広がりました。学内の行事では、松本ぼんぼんやボランティア活動に一緒に参加しました。授業が終わった後は、学校近くのレストランで食事をしたり、休日には一緒に観光地に出かけたりしています。彼らとの時間は、日本での生活において私にとって欠かせない大切なものです。 学校の授業も充実しており、日本語だけでなく、日本のビジネスマナーや礼儀作法について学ぶ機会も多くあります。簿記やパソコンの検定試験もたくさん取りました。最初は難しく感じましたが、先生方はとても親切で、分かりやすく教えてくれるため、少しずつ日本での生活に慣れてきました。また、実習の授業では実際に日本の企業を訪問し、ビジネスの現場を見ることができたので、とても良い経験になりました。 日本での生活を通して、私は大きく成長したと感じています。まず、日本語が上達したことで、自分の意見や考えをしっかりと伝えられるようになりました。日本語を学ぶことは簡単ではありませんが、毎日少しずつ勉強を続けています。また、日本の文化や習慣を理解することで、日本人の友人ともスムーズにコミュニケーションが取れるようになり、信頼関係を築くことができました。 さらに、日本での生活は私にとって自己管理の大切さを教えてくれました。特に時間を守ることや礼儀を重んじることは、日本社会で重要視されるポイントであり、日常生活でも意識して行動するよう心掛けています。日本での生活を通して、責任感や忍耐力も養うことができたと感じています。 このように、日本での生活は私にとって多くの学びと成長の機会を与えてくれました。日本で出会った友人や学校の先生方、そして訪れた美しい場所は、すべて私の人生の一部として心に刻まれています。私は日本での就職が決まっています。これからも、日本での生活を大切にしながら、さらなる成長を目指していきたいと考えています。 ◇泉北クラブ賞◇ 人生の豊かさとは?自分はこう考える スンドイ オユンチメグ SUNDUI OYUNCHIMEG 出身国:モンゴル 信州大学繊維学部先進繊維工学科 私は、人生の豊かさは予測不可能な混乱にあると考えています。たとえば、間もなく爆発する可能性が高く、凍結した火山があるとしましょう。その火山は一瞬で美しい風景を破壊してしまうかもしれません。爆発が起こると、何がどうなるかは恐ろしくて予測できず、完全に混乱なことです。しかし、実はその凍った火山が、その美しい風景を作る要素のひとつでもあります。火山の存在が風景を生み出しているのです。それこそが火山の本質であり、さらに言えば、それこそが世界全体の仕組みなのです。 ??この火山の例と同じように、人生には予測できない出来事がたくさんあります。9年前、私は日本に留学しようと決心し、毎日必死に勉強していました。1年間懸命に取り組み、いよいよ留学試験を受験しましたが、絶対合格するだろうと思っていたら最初の段階で不合格となり、留学の夢は潰されました。まさに、その時は火山が爆発した後のように完全な混乱でした。諦めることなく、もう1年間勉強を続け、再び同じ試験に挑みました。そして、ついに合格し、日本への留学が実現しました。今振り返ると、もし最初に合格していたら、もう1年間勉強することがなく、浅い知識のまま日本に来てしまい、そこで勉強の難しさに直面して留学を諦めていたかもしれません。むしろ、不合格だったからこそ、日本語や理科の勉強をさらに深め、万全の準備ができたのです。その1年間で、勉強だけでなく、自分がどういう人間なのか、将来何を目指したいのかについても深く理解できました。 そして、2019年に日本に来ました。すると、今までとは全く異なる、新たな経験と混沌が始まりました。モンゴルにいた頃は、家族が常にそばにいて、両親の愛や家の管理が当たり前のことだと思っていた自分に気づいたのです。日本では、朝から学校へ行って勉強し、帰ってきても誰もいません。疲れているときに母の手料理が待っているわけでもなく、その寂しさを強く感じました。そこで、家族の大切さを改めて理解し、夏休みにモンゴルに帰って両親に感謝の気持ちを伝えようと思っていました。しかし、新型コロナウイルスの感染が広がり、日本どころか、自宅からも外に出られなくなってしまったのです。新型コロナウイルスの時期は、私にとって日本で最も大変で苦労した時期でした。またあの火山が爆発した後のように完全な混乱でした。学校には行けず、オンラインでの勉強や、対面で人と話せない状況は非常に辛いものでした。 この大変な状況は約2年間続きましたが、やっと新型コロナウイルスの感染が落ち着いてきました。その時からは、朝に散歩に出かけたり、学校に行って勉強したりすることが心から楽しく感じられるようになりました。さらに、最も重要なことは人間関係ということに気づきました。その人間関係を大切にすることを主な目的にし、また自分の知識も皆に伝えたいと思い、課外活動として「ニーハロ」という英会話クラブでマレーシアの先生と一緒に日本人学生に英語を楽しく教えました。人と話すのが苦手な私はこのようにして後輩に英語を教えるようになったのは新型コロナウイルスの時の大変な思いがあるからだと思います。 去年、信州大学に編入し、また新たな経験と混沌が始まりました。今、私は信州大学の繊維学部の4年生です。本来であれば、来年の3月に卒業する予定でしたが、編入時に自分の認定単位の計算にミスがあったため、卒業は来年の9月に延期されました。言い換えれば、3月に4年に進級できず、留年してしまい、今年10月から4年生になりました。それに伴い、3月以降は奨学金も受け取れなくなることが決まりました。まるでまた火山が爆発した後のように、完全な混乱に直面しています。 この6ヵ月間はアルバイトもやってみて色んな人に会えて価値観も非常にいい方向に変わったと思います。今年は私が望んでいた年だったとは言いませんが、自分のミスしたものに責任を取り、人として成長するために必要な年だったと考えています。これから卒業まで何が起こるのかまだわからなくて恐ろしいですが、むしろそれを非常に楽しみにしています。 私は、人生の豊かさは予測不能な混乱にあると考えています。爆発していない火山を含んでいる背景は美しいです。しかし、その火山が爆発してしまえば、その後は大変な混乱になるのは間違いありません。それでも、少し時間が経てば、また復活して以前とは違う、新たな美しさを持つ背景が形成されていくのです。人生も同じく、いつどんな大変なことが起こるかが誰もわかりません。このような予測不可能な混乱の一生の中に平和を見出せば、きっと豊かな人生を楽しめるのではないかと私は考えています。 ◇桃園クラブ賞◇ 留学によって切り開く私の人生 ―夢を現実に 鍾 卓欣(ショウ タクキン) 出身国:中国 松本大学科目等履修生 かつて留学は私にとって叶えることが難しい夢だった。「留学したいけど、やっぱり難しいかな…」と考えながらも、異なる文化を体験したいという思い、自分の能力を高めたいという思いは消えることはなかった。日々の努力を続けて、やっと松本大学の交換留学の機会を得ることができた。これでユニークな人生を切り開く大きな扉を開くことができたと思った。実際、留学は私に様々なことを教えてくれた。特に私の人生や、人生観に影響を与えた3つのことをここに記したいと思う。 まず、留学は、そこに暮らす人々と触れあい、理解する喜びを教えてくれた。中国の人の多くが「日本人は礼儀正しいが、表面的なものである。内心は冷たい」という偏見を抱いていると思う。実は日本に来る前は私もこんなステレオタイプがあった。しかし、この偏見は日本に来てからすっかり変わった。日本に来てしばらくして、私は道に迷った。仕方なく入ったインフォメーションセンターは忙しく、なかなか話しかけられない。するとスタッフのひとりの女性が、私が急いている様子を見て、話しかけてくれた。私が外国人だと分かると、その女性は英語を使って道を教えてくれた。彼女にお礼を言って、私はその場を離れたが、その女性はさらに私に情報を伝えようと、すでに外に出ている私に走って追いつき、英語で話し続けてくれた。その人が息を切らしているのを見た時、私の「日本人は冷たい」という偏見は溶けた。 また、寮の近くのコンビニでは、店長がとてもやさしくしてくれた。そこでは、中国人が支払いでよく使うウィーチャットペイが使用できなかった。不便に思っていると、すぐにウィーチャットペイを導入してくれた。それからも様々な日本人と会って、日本人は礼儀正しさの中にも温かさを持っていることが分かった。留学して日本に暮らし、日常生活の中で、こんな温かい経験をしないと、分からなかったことだと思う。またこのような経験から、中国で外国の人にあったら、自分も思いっきり親切にしようと思った。 そして、留学を通じて自立心が養われた。私は二年間中国の大学で日本語を学んだ。今年五名の交換留学生のひとりに選ばれて日本にやってきた。しかし、初めて日本に来たとき、自信を失ってしまった。自分の日本語が通じなかったり、すべてが日本語の環境で、分からないことも多かったり、不安に私は飲み込まれてしまった。まるで大海に放り出されたような孤独感にも襲われた。夜、ベッドに横たわると、家族を思う気持ちが波のように押し寄せてきた。そんな時はやはり親と話したいと思った。私の家族はお互いに助け合う、素敵な家族だったから。でも、「お母さん、お父さんの悩みを増やしたくない」と思い直して家族に心配をかけないために、親が期待する通りの面白い留学話を作ってしまった。「この間、日本人の女の子と友達になってね…」、「日本の大学のゼミに参加したよ。みんな中国のことを聞きたがったよ」などなど。両親は嬉しそうに、私の話を聞いていた。 実は留学後、父が大変な病気になっていた。父は毎日、夜まで残業していたのである。兄は父が「夜更かしのせいで病気になったんだ」と言ったが、父は家族のために夜更かししてまで働いていたことは痛いほど分かっていた。そんな親に不安や孤独、ホームシックの感情を話して、心配をかけたくなかった。日本では日本語の問題をはじめとして数々の問題に直面したが、孤独に耐え、自分で解決しようと頑張った。もちろん地域の方、松本大学の友人や先生方からを助けてもらえたが、まず、自分で「頑張ろう」と思った。留学は、自分の責任ついて深く考える機会となったのだ。留学は私を自立した大人にしてくれたと思う。 最後は、留学を通して将来の仕事に対する目標を明確にできたことを挙げたい。最初は大変だった松本大学の授業も時間が経つにつれ、理解ができるようになってきた。色々な授業を取って、勉学も充実してきた。中でも簿記を勉強したことで、基本的な会計知識を身につけ、将来の仕事に向けて実践的なスキルを身につけられると感じた。仕訳や決算書を作成できるようになり、達成感を感じ、勉強することが楽しくなった。さらに、企業の財務状況を理解し、分析力を向上させたいと思っている。また「経営入門」という授業を通じて、会社や会計の役割がよく理解できた。マーケティングと財務管理がいかに企業において重要な役割を果たすかなど認識した。このような実践的な授業により、私は公認会計士になりたいと思うようになった。就職の方向を決めることができたのだ。今は積極的に資格取得を目指し、日々努力している。 このように留学は人生のかけがえのない成長経験となった。留学を通して、異文化を理解すること、自立すること、将来の仕事への道など切り開くことができたのだ。思えば、かつて留学は私にとって叶えることが難しい夢だった。しかし、日々努力を続けて、やっと松本大学への交換留学の機会を得ることができ、その夢を実現させた。そしてこの留学経験を通して、私は次の夢を持つことができた。それは公認会計士になるために、大学院にいくことである。「いつも初心にかえり、努力し続けること」、これは中国の言葉だが、私はこれからも夢を現実に変えるため、努力し続ける決意をしている。そうすれば夢は現実になることを留学が私に教えてくれたから。 ◇山梨YMCA特別賞◇ 祖国と違う日本の風習、文化、なぜだろう イ ドンギュ 出身国:韓国 信州大学工学部機械システム工学科 昔から我々の先祖は、船や徒歩で他の国に行き、そこで会った現地民と物々交換、または新しい技術に教えを乞うなどの行為をしてきた。それから時間が経って、飛行機が開発され、日帰りで隣の国に旅行することができるようになった。旅行や語学研修で、自分が訪れた国に魅力を感じ、そこから留学すると決意した人が相当いるかもしれない。文部科学省により令和5年の時点で、日本で留学している人は約28万人もいるという。コロナ明けである今のところは、その人数が続々と増えているという。その大勢の留学生の中には、日本での生活を満喫している人がいる一方、自分の予想、期待の通りに行かなく、落胆して不便、不快な日々を過ごしている人もいるだろう。実際に、自分は文化、言語の違いが原因で、日本の人と一切関わらず、自分と同じ国籍の人でしか遊ばない人たちを結構見たことがある。今回は、自分の国から来た留学生らがよく感じる日本と母国との文化的な違いに関して述べよう。 最初に、「飲み会で守るべき礼儀」に関して違いがあることが、これまで日本に住んできて分かったのである。まず、日本において「飲み会」は、強制的に参加するものではない。しかも、強制的に自分の先輩、または、他の上司の人が自分のコップに注いでくれたら、それを飲まなければならないという文化もない。なぜ日本は飲み会が強制的なものではないのか。それについて色々調べてみたところ、そもそも、日本はアジアでも唯一「個人主義」という思想が強い国であることが分かった。日本も韓国も、昔「集落営農」という文化があり、お互いに困難な場合に助け合おうという風習が強かったとテキストなどで見た気がする。しかし、今になって、集落営農という制度は無くなったが、それに代わる制度として、未だに韓国の男性においては「徴兵」という制度があり、強制的に軍隊に2年間連れて行かれるのである。軍隊とは、元々、個人主義よりは全体主義が強いところなので、個人での行動は禁じられている。よって、どの物事に関しても一緒に協力せざるを得ない形になっている。そのような背景から、兵役が終わって社会人になっても、強制的な飲み会といった反個人主義的な文化になったのではないかと考えた。 そして、「遊び」に関しても少し違いあることに気付いた。大学時代限定で、確か、地元で友人と遊ぶ時、できるだけ知り合いを呼び出し、大人数で遊ぶのが定番であった。そこで、大体お酒とゲームは抜けないものであった。毎回遊ぶたび、自分からして、そのような遊び方は「狂気の沙汰」のようなことであった。自分はそのような遊び方は少し嫌だと思う側である。それで日本に来て、皆が大人しく遊んでいて良かったと感じたが、他の人は全然そうではなかった気がした。なぜかというと、日本に来て、知り合いと遊ぶ時、酒無しで大人しく近くの山に行ったり川で遊んだりするなど、言い換えれば静かに遊ぶことに物足りないと感じた人がなかなかいるようだった。それに、少し振り返って見れば、母国にいるときは、自分の親友が参加できないと連絡したら、「何で来れないの?」、「面倒くさいとか通じないよ」など、よく言うのを聞いた。しかし、日本は、大した理由でなくても、このような文句を言われなかったのである。それも「個人主義」と「集団主義」との違いに因るものではないかと考えた。 上記のことに似ているものとして、日本は気軽に一人で外食なり旅行なりすることができる国であることが分かった。少し考えてみれば、母国で一人飯とかは想像すらもつかないことであった。多分、韓国は基本的に一人で外食すること(いわゆる一人飯)よりは、絶対に他の人と一緒に食事をする文化が蔓延するからではないかと思った。しかし、日本に来てから、他の日本人の知り合いなどを見ると、ひとりで飯を食うのは当然のようなことであった。今になって、母国にも1人で外食したり旅行したりする人が増えていることを感じるが、日本への旅行ブームが始まる前は、そういった文化がなく、むしろ、そのようなことをすると、周りの知人などから変な目線で見られた。それに関して、自分も中学か高校時代に感じた記憶がある。周りの友達や親戚に「昨日、最近新しくできたお店に一人で行ってました」というと、少し変な目線で見られつつ、「一人でよくどこか行ってくるよね」のような言葉を聞かれた。このことから、日本は明らかに「一人旅」や「一人飯」にとっては遠慮なく、気軽に楽しめることができる国だと感じた。 次に、「お風呂」に関しても少し驚いたのである。韓国の場合だと、季節や時期に関わらず、お風呂にほぼ毎日入る人はあまりいないのだが、日本に来て、日本の人は、ほぼ毎日「家に帰ってお風呂に入ります」と言ったのが興味深かった。確かに、韓国でお風呂に入るのは、大体、自分の家族とサウナに行く時しかなかった。なぜなら、昔から殆どの韓国人は学校やテレビにより、「我が国は水不足の国であり、だからこそ節水をするべきだ」と耳にたこができるほど教わったからである。それで、お風呂に入るのをできるだけ控えてシャワーを早く浴びる人が多いのである。それ以外に、お風呂に入ると、水道代が嵩むこともあって、お風呂に入るのをできるだけ控えるのではないかと考える。 最後に、年齢の数え方に関しても違いがあると感じた。韓国だと、母のお腹に子供がいる時から0歳として数えることで、生まれたばかりの赤ん坊は、自動的に1歳になってしまう。なぜなら、昔から韓国は「儒教思想」の影響を受けたからである。しかも、その思想の中で「人間は自分の母親のお腹にいる時から命があり、その時から一つの人格を持つ人として見なす」というのがあり、その観点から、お腹にいる子供にも人権があることとして考えているのが分かる。そこから韓国の特有の歳の数え方が生まれたのである。それとは違って日本は、元々、他の国と同じく、人が生まれたその時から人権があると思い、その思想から生まれたばかりのその時点で0歳として見なしている。その違いから、偶に、自分も、他の人に自分の年齢を教える時に紛らわしかった時がしばしばあった。 ここまで日本と韓国の文化の差に関して述べてみた。ここからは余談になるが、自分の地元の知り合いから「日本と韓国は近くにある国だから、文化的に似ているよね」や「近くにある国だからこそ、文化的に似ていて、そこに留学しに行ったら直ぐ慣れるのでは?」と思っている人が多いことが分かった。それで、その中で何人か、実際に日本への留学を決意し日本に来て住んでいる人がいる。しかし、実際に何年間か住むと、日本と韓国との文化や生活においての差が段々体感できるだろう。その差から因る「予想と現実との乖離」は「絶望感」と「憂い」といった感情を生み出し、最終的に人を「懐郷病」にかかるようにする。それらを現地の人と付き合い、その国の文化や風習を理解しようとすることで乗り切ることができる。このようなことを実践し、海外で輝かしき人生を作り出すことで、鳶が鷹を生むのような素晴らしい人間になれるはずだと、自分はそう思う。 |